こんにちは!お久しぶりです!Clever Appleです!!
最近バタバタしており、久しぶりの投稿になってしまいました…
今日は「この考えって変ですか?」というテーマで、最近私が英語教育について考えていることについて2点書いていこうと思います!
駆け出しの英語教員として書いているので、「おかしいぞ??」と思うところもあるかもしれませんが、ご意見いただけますと幸いです!

上の写真は、8月に新婚旅行に行った時のものです!
イギリスとスペインに行ったのですが、この写真はイギリスのパディントンのホテルから撮ったものです!
新婚旅行についての記事も書きたいのですが、写真の整理も終わっておらず、書くのに時間もかかりそうなので、またの機会に…!
さて、一つ目は、よく「時代遅れ」、「コミュニケーション能力の向上につながらない」などと揶揄される文法訳読式についてです。
最近の英語教育では、Communicative Language TeachingやTask Based Language Teachingなど、コミュニケーション能力重視の教授法が主流ですが、私の疑問は
「文法訳読式の教授法ってそんなに悪いですか?」
という問いです。
最近授業をしていて思うのは、
「生徒が英文を理解しているかどうかは、事実発問や推論発問だけで評価できるのか」
という疑問です。
ある日授業で生徒に英文を日本語訳させると、部分的には日本語訳できているものの、他の部分が間違っており、結果的に全くニュアンスの違う日本語訳になってしまった。ということがありました。
ここから感じたことは、
①教科書の英文の中で、その特定の箇所についての発問がなく、
②教員からもその文についての説明や解説がなく、
③日本語訳だけが与えられ、なぜその英文がその日本語訳になるのかを考える機会がなければ、
その英文は生徒にとって
「文の構造については、よく分からないし、なぜこのような日本語になるかわからないけど、一応先生がくれた日本語訳はこうだから、このまま覚えよう」
という「置いてけぼりの文」になってしまうのではないかと思いました。
現在、文章全体の概要理解ができればよく、授業時間の都合上、細かい点は置いといて、コミュニケーション活動に時間をかけようといった傾向があるように思います。
先生たちも、限られた時間の中で授業をすることを迫られており、
①教科書の解説だけで授業が終わってしまい、自己表現活動に時間を割くことができない。
②教科書の理解が不十分なままコミュニケーション活動だけをやっている
ことがあるというのを聞いたことがあります。
「英文1文1文はよく理解できないけど、全体の概要としてはこんな感じだろう」
といった理解でいいのかと疑問に思うのです。
確かに、1文1文の理解はできているものの、文章全体で何を言いたいかが分からないという、「木を見て森を見ず」のような状態は良くないのかもしれません。
しかし、逆に「森を見て木を見ず」という理解も同時に良くないのではないでしょうか。
最近自分の英語力の維持、向上のために、元同僚の先生からオススメされた、
朱牟田夏雄さんの『英文をいかに読むか』(文建書房)
と
という本を少しずつ読んで勉強しているのですが、これがまた難しい…!
私が言いたいのは、共通テストなどで与えられた英文をスピード感をもって概要を理解する力も必要かもしれませんが、1文1文を根気よく地道に理解する訓練がおろそかになるのもこわいということです。
「ある程度理解しやすい英文の中から、必要な情報をいかに速く取り出すことができるか」を重要視しすぎて、「英文のディテールは無視する」という姿勢では、いつまでたっても少し複雑な文や、そこに込められたメッセージを理解するのは難しいのではないでしょうか。
昔ながらの、教科書の英文全てをノートに書き写し、その日本語訳を説明して授業が終わるという授業計画には反対ですが、ある程度文法訳読式のメリットを考えてもいいのではないでしょうか。
例えば、最近、日本語訳を全文書いたりしなくても、教員と生徒で日本語訳を確認しながら授業を進めるのもいいのではないかと思ったりします。
英文の日本語訳ができるからと言って、必ずしもその英文を理解できているとは限りませんが、日本語訳ができるというのは、その英文をきちんと理解しているという基準の1つになると思っています。
最近気になり、ChatGPTで文法訳読式のデメリットについて調べてみました笑
すると出た答えには、
①コミュニケーション能力が育ちにくい
②動機付けが下がりやすい
③母語に依存してしまう
④自然な言語運用にはつながりにくい
といったものが挙げられました。
これに対して、①と②に関しては、時間をかけすぎずに日本語訳は行うが、それで完結するのではく、その後にきちんとコミュニケーション活動の時間を設ければ解決すると考えられます。
文法訳読式はそれ自体に問題があるのではなく、授業内でのコミュニケーション活動の省略と、それによって生徒が「英語=訳読=つまらない」となってしまうのが問題ではないかと考えます。(英文の構造を理解するのが面白いと思う生徒も一定数いるとは思いますが。)
また、③と④の問題点に関しては、むしろEFL環境の日本では英語学習は母語に頼らざるを得ないのではないでしょうか。
大量のインプットを限られた英語授業内で得ることが難しい日本の英語学習環境において、母語である日本語を使わないというのは難しいと思います。
また、むしろ日本語を使うことがメリットとしても考えられます。
「英語を英語で学ぶ」というのは理想ではありますが、基本的には外国語である英語よりも、母語である日本語を使うことで、より深く英文を理解できると考えられます。
これは英語で他の教科を学ぶよりも、日本語で学んだ方がより深く理解できるということと通ずるところがあると思います。
何をもって英文を理解しているかと定義するのはとても難しいと思いますが、事実発問に答えられたから、全体の概要が把握できたから、きちんと理解しているだろう。
➡理解はそこそこにして、コミュニケーション活動をたくさん行おう。
というのは少し怖い気がします。
私の英語教育のモットーはずっと変わらず、
「少なく学び、たくさん使う」
ですが、この「少なく学び」のところがおろそかになってしまうのは本末転倒になってしまい、危険であると思いました。
長々書いてみましたが、要するにインプットや英文理解の軽視はこわいということです笑
是非ご意見いただければ幸いです!
さて、次は「リテリング」について最近思うことです。
多く英語の先生が実施しており、私自身も興味がある「リテリング」。
最近正直に思ったことは「面白くなくない?」ということです。
英文の内容を分かったうえでそれを自分の言葉で他人に伝えるリテリングは確かにパラフレーズやインプットからアウトプットにつなげるインテイクの重要な活動に位置づけられると思います。
しかし、内容を知っている生徒同士でそれを伝えあって何が面白いのかと思うのです。(ドリル活動として割り切ってしまえばそれまでですが…)
そこで先生方は、「相手意識、目的意識を持ってリテリングすることが重要」と言います。
例えば、「小学生に伝えるように」とか「おばあちゃんに伝えるように」とか「ALTに伝えるように」とかです。
確かに理屈は理解できますし、完全にオーセンティックな状況ではなくても、アクティビティとして生徒の力を付けることに役立つということは分かります。
ただ、これらの状況ってほぼあり得ない(実際には多分実現しない)し、生徒がやってて楽しいかな、オリジナリティがないよなという違和感が自分の中で拭えないのです。
それに加え、教科書に出てくる表現や言語材料が本当に生徒が使いたいものであるとは限らないし、それを無理に使わせる必要はないと思うのです。
だったら、「本文に関する評価発問に対する友達の答えを他の子にリテリングする」などの方が、自分事として捉えることもできるし、それは実際に自分で使ってみたい表現だったりするのではないでしょうか。
私はリテリング自体に反対しているのではなく、「もっといい、生徒が楽しめるようなリテリングの方法がないか」というのが思いつければと思っています。
インテイクの活動は必要不可欠だと思いますし、生徒の英語力を向上させるのに大事だと思います。
それをもっと楽しい形で実施できる活動があればと思うのですが…
授業で時間がなく、内容理解とリテリングで終わってしまうのは、生徒はつまらないのではないでしょうか。
生徒の自己表現したいという欲求と、インテイクの活動を結び付けることができればよいなと思っているところです。
もし何か良い考えがあれば是非教えていただきたいです!!
ここまで偉そうに書いてきましたが、最近の私の授業に関しての行き詰まり(悩み)的なものです。
また研修に参加したり、本を読んだり、他の先生方から学んだり、自分で考えたり、解決策が見つかればまた適当に書いていきたいと思います!!
【余談】
最近英和辞典を最初から読んでみているのですが、これが面白い!!
ただ、1日2ページずつとかなので、全部読み終わるのに10~20年くらいかかりそうです笑笑
最後までお読みいただきありがとうございました!!
それでは今日はこのへんで!
楽しい英語学習を!!




























































